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エリファス・レヴィの生涯(一)



levi1.gif  近代までのヨーロッパの隠秘思想を体系付けて復興させた最大の人物といえば、評価は分かれるにしても間違いなく、十九世紀フランスのロマンティックな思想家エリファス・レヴィであるといえよう。ここでは彼の生涯を簡単に追ってみたい。


 レヴィは本名をアルフォンス・ルイ・コンスタン Alphonse Louis Constant といい、1810年にパリに生まれた。信心深かったがしかし貧しい靴屋の息子であった。少年時代は体が弱く、他の子供達と一緒に遊ぶことは少なかったようである。どちらかといえば、一人で家に閉じこもって夢想したり絵を描いたりしている子供であった。

 その頃から神秘的な感覚を受容する素質があったらしく、十二歳の時の初めての聖体拝領の際に、無限なるものの感覚をはっきりと自分自身に感じ取ったという。

 十五歳になると、両親の希望と彼自身の欲求が一致した結果、聖ニコラ・デュ・シャルドネ神学校に入学する。そこの校長のフレール・コロンナ師は、『動物磁気説研究』という著書を持つ、神秘哲学にも造詣の深い学者であった。

 コンスタンは彼の感化を受けつつヘブライ語や哲学を勉強した後、パリの有名な聖シュルピス神学校に移る。そこでは創立者のオリエ師の著作に熱中し、生涯コンスタンを捉えて離さなかった熱烈な聖母信仰と女性崇拝の理論を学んだ。しかしながら、聖シュルピスの神学教育には不満を感じ、自らすべての宗教を統一する原理の発見という作業に取り掛かり始める。後年の隠秘学道士としての、自然の神秘を解き明かし、そこに流れる律動原理を見いだそうとする姿勢はこの頃に萌芽したのであろう。

 1835年には、二十五歳という若さで助祭に任命される。さらに次の年には司祭に任命される予定であったのだが、そうはならなかった。コンスタンは恋をしたのだ。アデール・アランバックという一人の若い娘の存在は、コンスタンに神学校を飛び出させる十分な理由となった。結局彼は助祭の地位さえ捨ててしまったのである。息子に期待を寄せていた彼の母は、コンスタンの行動に落胆し自殺を試みたともいわれる。


 全てを捨てて飛び出した彼ではあったが、結局アランバックとの恋は成就しなかった。若き恋の痛手を負いながら、三年ほど彼は遍歴を続ける。1838年には美しい女権運動家フロラ・トリスタンと出逢い、親しい交友を結ぶ。彼女との交際でコンスタンは自らの女性崇拝の思想を確固としたものとし、同時に社会主義思想へも目を開くことになった。彼が彼女の思想に強く影響されたであろうことは、後の著書『女性解放あるいはパリアの聖書』(1846)の中の次のような文面からも明らかである。
神は諸君を愛すべくつくり給うた。ところで、愛するということは何か? 選ぶことである。それ故愛するためには自由でなければならぬ・・・ (1)
 またフロラ・トリスタンの方は、コンスタンから神秘的思想についての影響を受けたようで、彼女の唯一の小説『メフィス』には、男女間の親和力的な意味で「マグネティズム」という語が使用されたりしている。

 同じ年には、神秘主義詩人であり社会主義思想家でもある、アルフォンス・エスキロスとも出逢う。彼との親密な交際を通じて、小ロマン派の文学者たちの集いなどにも参加するようになる。

 1839年には、同じくエスキロスを通してマパ・ガンノーとも知り合っている。ガンノーは彫刻家であり、またエヴァディスム(エヴァとアダムを合成した語)による世界救済を目的とした新宗教を興した怪人物である。エヴァディスムの教義とは、偉大なるエヴァ(フランスを象徴する)と、偉大なるアダム(キリストの象徴)の苦悩が一体となったとき、それが真の人間的統一を形成するというヘルマフロディズムの教義であった。コンスタンはその異端的、終末論的思想に大いに魅力を感じたのであろう。

 ガンノーが自分の名前として自称していたマパという語もまた、母の意味のマーテルと父の意味のパーテルを合成したものである。前述のフロラ・トリスタンの孫である、ポール・ゴーギャンの言及によると、彼女もガンノーの教義に傾倒していたらしい。しかしコンスタンの方は、ガンノーの極端な予言癖や異教思考には、後の『魔術の歴史』(1860)で批判的な見解を示している。


 コンスタンは、同年のうちには再び信仰に戻ろうと決心し、ソレームのベネディクト派修道院に滞在する。そこで彼は、フェヌロン・ギュイヨン夫人などの静寂主義の著作や、クリューデネル夫人などの敬虔主義の著作を読み耽った。静寂主義(quietism)とは、自ら活動することを押さえ完全な受動的態度によって宗教的な徳を得ようとするものであり、敬虔主義(pietism)とは、静寂主義の影響を受けた、宗教体験と実線を重視するプロテスタントの宗派である。いずれも教義や組織ではなく、個人とその神秘体験を重視するという非常に神秘主義的色彩に濃い思想である。

 従って同年に出版された彼の処女作、『五月の薔薇の樹』が神秘主義的な特徴を表わしていたのも当然のことといえる。内容自体は、月の各日をマリアに捧げた伝説集のようなものであった。

 しかし彼は、修道士には禁じられていた書物(ジョルジュ・サンドの『スピリディオン』など)を読んだこともあって、当時のカトリック教育界の重鎮であるデュバンルーに、修道院の入院資格を剥奪されてしまう。再び教会から離れざるを得なくなった彼は、失望しながら、ジューイの村の学校の生徒監督の職に就く。ここで1841年に、コンスタンの初の革命的著作『自由の聖書』を発表する。これは聖書から革命の教訓を抜き出して解説した内容の書であったが、やはり彼の神秘的愛の理論は顕在している。

 この書物が、「聖書の教えを不当に歪め伝えた」ものとして、コンスタンは八ヶ月の禁固と三百フランの罰金刑を受け、さらに自著のすべてを没収されてしまう。しかし、サント・ペラジ―の牢獄に収監されたコンスタンは、アルフォンス・エスキロスと再会する。ここで再び彼の感化を受けたコンスタンは、古いヘルメス学の著作やギヨーム・ポステルやライムンドゥス・ルルス、さらにアグリッパ・フォン・ネッテスハイムなどの書物に親しんだ。また社会主義者のラムネーとも知り合い、スウェ-デンボルグの著作を教えられたのもこの頃である。後のエリファス・レヴィを生むことになるこうした勉強を積みながら、彼は『女の昇天あるいは愛の自由』(1841)なる書物を発表する。これもまた、社会主義的な女性崇拝思想の展開であって、アンドロギュヌスと処女性の讚美が強く表れている。

 だがコンスタンは出獄すると、それまでの社会主義的思想をあっさり捨てて、宗教画を描く両家へと転身した。彼は絵の才能もあったようで、『山のキリスト』やアレクサンドル・デュマの小説の挿絵などを手掛けた。それは、彼にとって三度目の信仰への復帰ではあった。しかしながら、カトリックの正統統派には彼の思想は受け人れられず、三年後の1844年に刊行された『神の村、宗教的人道主義的叙事詩』によって、彼は異端とみなされ、カトリック教会との関係を永久に失うのである。

 教会という足枷から解放されたコンスタンは、精力的な新しい生活を始める。彼は生計の資を特別教授によって得ながら、驚く程の速さで次々に著書を発表する。

 1845年には、イタリアの神秘詩人シルヴイオ・ペリコの影響のもとに『聖体祭あるいは宗教的平和の勝利』が書かれ、またその次には教会のドグマに対する露わな拒絶を含んだ『涙の書あるいは慰安者キリスト』を、さらにアルフォンス・ルイ・コンスタンの名前で書いたものの中では、最も有名でありロマンティシズムの書でもある『三つの調和』を出版する。また前年に死んだフロラ・トリスタンの遺著、『賤民の遺書』の出版も行う。

 1846年には、ル・ガロワの手で『最後の化肉、十九世紀の福音主義的伝説』が刊行される。そして同じ年にコンスタンは、自分が教えていた十七歳の女子学生マリー・ノエミ・カディオなる娘と結婚する。彼女は画家であり、またクロード・ヴィニョンという筆名で文章も書くといった才女であった。しかしながら、これはコンスタンの望んだ結婚ではなかった。彼は女子寮の監督をしていたマリ-の母親のユージェニーという女性と関係をもっていたのである。だが娘マリーもコンスタンに恋していたために、家を飛び出して彼のところに押し掛けたのである。その時母親の方はコンスタンの子供を妊娠しており、娘の父親、つまり母親の夫に追求されたコンスタンは、責任をとって娘と結婚することを承知したのだという。だが結局この結婚は長く続くことはなく、妻の不貞が原因で離婚することとはなる。

 二月革命後のコンスタンは政治集会にしばしば出没し、論議にも積極的に参加していた。その中で「メシアニズム」なる思想を説いていた、ポーランドの有名な神秘主義者のホエネ・ウロンスキーと知り合うことで、隠秘学の研究の方も継続させていた。1848年の7月には、彼の最後の革命的著作、『自由の制約』が上梓されたが、革命の挫折共に彼はしだいに政治から遠のいていった。

 その後ミーニュ神父なる人物の指導のもとで、しかしほとんどコンスタン自身の筆になる、『キリスト教文学辞典』を制作する。その後は、ホエネ・ウロンスキーの義弟のモンフェリエと共に『進歩的評論』という、政治色の全くない雑誌を創刊する。

 以上のような経緯の後、コンスタンは1853年に、魔法道士エリファス・レヴィと名乗り新たな人生を開始する。

エリファス・レヴィの生涯(ニ)に続く....)



−註−
  1. 『幻視者たち』 巖谷國士 pp.147

last updated 1996/12/19