眼の欲望

 
 男にとって、最も原初的な性的刺戟とは、衣服を脱いだ女の裸を瞰ることである。
法廷のフリュネ
ジェローム 「法廷のフリュネ」(部分)
 裸を見るということは、対象である女から、その人間としての存在を衣服とともに剥ぎ取り、純粋な客体としての女を見ることである。
 客体とはすなわち、完全なる物質としての肉体と云うことである。その状態にいたったとき、初めて想像力というエロティシズムが発現する。
 フリュネが法廷において、一瞬のうちに全裸を晒した刹那、それぞれが退屈な自己抑制の故に、閉ざされ疎外されていた法廷内の男性の精神に活が入ったのである。
 罪を持ち、権力によって罰すべき対象である一人の脆弱な人間が、裸体を晒すという行為によって、裸体そのものによって、恐怖と驚きを与える巨大な強者としての客体と化した瞬間である。
決定的な行動は裸にすることである。裸体は、閉ざされた状態、つまり非連続な生存の状態に反しているのだ。それはいわば交流の状態、自閉の状態の彼方に存在の可能な連続性を求めんとする、交流の状態なのである。(1)
 フリュネの裸身が恐怖の感情を引き起こすのは、連続性への参画に対する躊躇である。それは本能的に死の匂いを感じているということである。
 見ることは、エロティシズムにおいて、最も基本的であると同時に、イメージという点から言えば窮極でもある。
 欲望とは、まず見ることから始まる。
 「羊たちの沈黙」の中の会話にあるように、人間は欲望の対象を探し回るわけではない、「我々はまず手始めに、毎日見ているものを願望する」(2)のだ。
 見ることによって発生した欲望は、無限に肥大化する。イメージというエロティシズムの観念が自己増殖を始めるからである。
 何故なら、よく目にするものは、記憶に定着化するに従い、自己にとって慣れたもの、つまり新しい対象との比較の基準となるのである。そして次の新しい対象がその基準より劣ると感じたときから、慣れた基準は愛着の対象となる。
 愛着の感情が芽生えると、慣れた対象は自己の一部であることを自己が欲する。つまり、自己にとって所有と征服・侵犯の欲求の対象に変化するのである。
  
 

 
−註−
  1. ジョルジュ・バタイユ 『エロティシズム』 澁澤龍彦訳 二見書房 1973 pp.26
  2. トマス・ハリス 『羊たちの沈黙』 菊池光訳 新潮社 1989 pp.320