小林秀雄論

     ─ Xへの手紙から ─


 神に愛された天才は夭逝することを宿命づけられているが、その代償として全ての凡庸な人生の持ち主は無惨な生活を継続しなければならない。美の玉座は、すなわちその不断の無意味な生の連続の上に成立していると言えよう。
 その様な観点から見ると、果たして小林秀雄の生とは、如何なるものであったのだろうか。彼の本質的な出発と敗北と諦観を示唆している思える、「Xへの手紙」から考えてみたい。

 
 小林秀雄もまた死ぬことの決意、否、『死なざるをえない自分』と云う認識への絶望的な確信から文章を書き始めたのであろう。つまりそれは、出発の時点で既に終わっていたということである。彼の書いた一切のものは、単に彼の肉体に於いて死がやって来るまでの暇潰しであり、取るに足らない意味の無いものである。そしてそう考えることは、きっと彼を喜ばせるに違いない。

 不幸にも一端傷を負った人間は、その傷が真に致命傷であるならば、それによって死ぬ以外には道はないのである。そう云った致命傷となる傷を負う、あるいは致命傷であると自ら認識する精神は、すでに宿命として確実に存在する事実であり、それに対しては如何なる評価も下すことは出来ないであろう。

 しかし、精神的には死んでいると思ってはいても、現実的には無様な肉体と共に生き延びていると云う悲惨な状況が現実的に存在する。死に至るものである致命傷を負った人間が、生きて活動すると云うのは奇妙な矛盾である。それは在ってはならないことなのである。従って、その状況に置かれた人間は、その矛盾を解決しなければならない。しかし小林はそれについて考えることを拒否した、あるいは否定したと思われる。

 つまり、「兎も角も俺は生き延びた。さうだ兎も角もだ。兎も角もなどとなんと精妙な言葉を人間は発明したらう」と云う具合である。確かに「兎も角も」は精妙な言葉である。だがここでは明らかに逃げ口上でしかない。「ただ明瞭なものは自分の苦痛だけだ」と言った以上は、「兎も角も」とは決して言えない筈である。「苦痛と」と「生き延びる」ことが「兎も角も」で結ばれているのでは、単に判断停止による全肯定であり、矛盾の解決では決してない。

 このような態度で文章を書くには、やはり手紙という形式で書くより外に道はなかったのであろう。小林は驚くほどの同義反復の連続によって、自らの態度の存在価値を咒文の如く執拗に訊いかけたのである。若き小林には、まだ自分の美に近づくことの出来る可能性を信じたかったのであろう。
 とは云え、彼は真に自殺を考えた人間の到達する点にまでは辿り着いていると思える。彼は言う、「人は女の為にも金銭の為にも自殺することは出来ない。繰返さざるを得ない名付けやうもない無意味な努力の累積から来る単調に堪へられないで死ぬのだ」と。これは芥川龍之介の「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない」という、遺書中の言葉と正確に呼応するものである。

 しかしながら、これが真であるということは、実際に自殺してしまった人間からは知らされはしない。つまり生き延びた人間によってしか証明されないのである。それはつまり、自殺の理論とは生き延びる理論と一体となってこそ理解されるものであると云うことである。しかしそれは、「兎も角」などと云う生き延びかたでは決して確信には至らないであろう。 

 小林が生き延びる理論を完成し得なかったのは、彼の未発表断片の次のような文章からも明らかである。


 僕はまだ死なないでゐる。何故かといふと死ぬと決つた日には、曇つてゐたのだ。僕は晴れた美しい空を目に浮かべてゐた。処が目をさますと曇つていたのだ。それで何もかもめちやめちやになつた。又僕はやり直すことにする。


 小林は、このように書きながらも自分は畢竟青空の下でも自殺などしないであろうと確信していたに違いない。つまり、彼の生き延びる理論とは、死なない理由を設定することによって、その場逃れを繰り返して行くことでしかなかった。

 そのような苦しい弁明しか書くことが出来なかったのは、結局彼の苦痛が、本当に「明瞭なもの」ではなかったからかも知れない。自分の苦痛が真に明瞭であり、間違いなくそれが癒しようもない不治の痛手であるということを確信するならば、その傷によってのみ自分は死ぬのだということを否応なく肯定する筈だからである。

 そのことを完全に認識するならば、まさにそこにこそ生き延びる理論も存在している筈である。つまり、生き延びているのは死なない理由のためではない。それは「明瞭な苦痛のために自殺することは出来ない」からなのである。苦痛が唯一の明瞭なものであるが故に、苦痛そのものに身を委ねた人間は、自殺と云う、苦痛以外のものに意志的に身を委ねると云うことは決して出来ないのである。

 つまり、断じて救いはないのだ。『死なざるをえない自分』という認識を確信したならば、実際に現実としての死が自分に訪れるまでその確信を持続する以外に道はないのである。そしてその「名付ようもない無意味な努力の累積から来る単調」に堪えられなくなった時こそが、やっと死が訪れる時なのである。それは常に訪れるものであって、自ら選択出来るものではない。何故なら、堪えられないといっているその瞬間も生きている以上、堪え難きを堪えているのである。堪えて生きているという状況の中で、自殺で死ぬことは苦痛そのものによって死ぬことではないのである。

 そうすると、生き延びる理論とは結局、致命傷をどのように捉えるかでしかないと言える。致命傷とは必ずしも即死する傷ではないのである。いつか必ず死に至ることだけが確実なだけで、その死の時期は決して知らされはしない。ひたすら死が訪れるまで、退屈な生を継続しなければならない。それは最も過酷な苦痛という罰でしかない。
 
 尤も、逃れる術も、救いもないと云うことは、小林自身解り切っていたことであった。しかし、彼は夢をみる。救われる自分の姿を無意味に向かって問いかける。それは彼の選んだ死ぬまでの時の潰しかたであり、苦痛をさらに明瞭にするための慰みである。つまり、彼の「不幸な性癖の一つ」に過ぎないのである。

 「俺のような人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ」と彼が言う時、「一つの事」と「一人の友」とは、全く同じ意味合いを持つものである。彼にとって必要なものというのは、苦痛以外の、別の「明瞭な」何か、なのである。それが得られさえすれば、救われるのだと彼は夢みたのである。それ故、「俺に入用なたつた一人の友、それが仮に君だとするなら、俺の語りたいたつた一つの事はもう何事であらうとたいした意味はな」くなるのである。

 勿論それは適えられはしない望みである。だが、苦痛が明瞭になればなるほど、適わぬ望みが必要になるのである。たとえそれによってさらに苦痛が深まろうとも。そしてその望みは、一つの存在がその全てを賭して言い得た絶望の極みという点で、やっと美に達することが出来るのだ。

 だが小林は、そんなみすぼらしい美の座からも転落してしてしまった。もちろん意識的にではない、単に精神の弱さによってである。それは不幸なこととも、幸福なこととも言い難いものである。それも彼の持つ宿運としか言うことは出来ないであろう。

 彼は自己の位置する場所に、少しでも安心を据えようとした。言い換えれば、自己を正当化しようとしたのである。それは考える時点で既に誤っていたことである。もともと自己とは、夭逝することを許されなかった、生という罰を与えられた罪人でしかないのだ。

 「俺はいまこの場所を支えてゐる外、どんな態度もとることが出来ない」と小林は言う。そしてその支える方法として彼が設定したのは自己の凡庸さと孤独という両立し得ないように思われる二つである。

 「この身が恐ろしく月並みな嘆きのたヾ中にゐる」と彼が言っていることは、自分の苦痛を一般化しよう云う試みである。自分の苦痛が他者の中にあるものと同じと考えることは、「明瞭」な苦痛を抽象的なものに変えることである。それは自己の苦痛に対して傍観者になろうとすることである。だが、明瞭な苦痛に対してそんな姑息な手段が通用する筈もないのではある。

 そしてまた、「俺は依然として俺の孤独を感じている」と言うことは、自己の苦痛を存在しないものとみなそうとしているのかも知れない。何故ならそれは、堪え難い苦痛を、堪え得る安心出来るところの「孤独」と云うものに置き換えようとしていることに外ならないからである。当然、そんなことは自分自身の側からみれば、何の変化も起こさないものである。

 だが彼が凡庸さと孤独と云う二つの概念を設定した真の理由とは、凡庸さによって「苦痛」を遠ざけ、そのすきに「孤独」の中に逃げ込もうという目論見のためであったと思われる。それは死までの時間稼ぎという意味では、回り道であるが故に成功したのかも知れない。しかし結局はランボオの次のような章句に行き着くだけでしかない。


   ――もとより希望があるものか
   立ち直れる筋もあるものか、
   学問しても忍耐しても、
   何れ苦痛は必定だ。 (小林秀雄訳)


 結局、美の座からも転落した小林は、批評家となるしかなかったのである。これは彼自身も身に滲みて解っていたに違いない。彼は美を断念せざるを得なかった。彼の存在は美に奉仕するにはあまりにも小さすぎたのだ。