錬金術と超センチメンタリズム

     ─ 日夏耿之介論 ─


一.序

 今や日夏耿之介と云う特異な詩人は完全に黙殺の状態にあると言えよう。
 実際、日本文学史上に於いて、その業績に反して日夏耿之介ほど、誤解すら受けない、つまり全く理解されずにいる詩人は他に居ないのではないだろうか。
 しかしながら日夏耿之介は日本に於いては、ほとんど希有と言って良いであろう純然たる神秘詩人であり、世界の神秘詩人と比較してもかなり風変わりな香りを放っている詩人である。
 それは詩人としての最も原始的な意味、つまり言語による美を現出させたということに於いても、またそのような芸術的ないし審美的な意味としての詩人を越える、新たな存在の地平を示唆したという点に於いても正当なものであろう。
 そこで本小論では、日夏の詩作とその中心的な位置にある隠秘思想、主として錬金術について考えて見たい。

二.天啓と神秘

・生来の蕩子

 日夏詩に於いては、作為的に隠されているわけではないが、しかし決して、安易な理解を拒絶する、ある種の冷厳な力が漲っている。それは、一種の読者に対する拒絶とも受け取れる印象である。通俗的な認識では、難読字の多用とか、日夏自身の「一般の人の讀書的識見と貞操とを問題にしてはいない」(1)と云う態度に起因するように思われる。

 しかしながらそれはやはり、皮相的な捉えかたでしかない。冷厳な力とはすなわち濃密な美であり、それを支えているのが一般的な識見の範疇には収まり切らない知識であろう。

 日夏のそのような力とは、ある意志的な感覚、あらゆる対立要素を対立状態のまま取り込み総合するという、謂うなれば歓喜と呼ぶべき感情の是認から成立しているように思われる。日夏は自身のその様な感性を直視し、そこから開かねばならない扉を開けたのである。

すなはち、身自ら打ち克ち難い心の癌種に疾みつつ、身自ら調和し難い様々の對象を兼ね収めようと徒に焦心狼狽する一種癒しがたい性来の文學上蕩子であるかもしれぬ。(2)

・かたちである美

 ではその様な相反する感情を表現する拠り所なるものは何か。それは決して情念を無自覚に垂れ流すことではない。その様な方法では、ある志向性を持った精神に対して、何一つとして満足な結果を与えるものではないからである。従って日夏は、調和しないように思われる感情を強制的な枠組みの中に填め込む形を求めた。単に対立を和解の形で止揚するのではなく、対立を対立状態のまま閉じ込め、二つの対立を包含しつつ超越する三つめの法則を現出させること、それが日夏の取った方法である。従って日夏に於いては、美は確実に形式である。形式に於いてのみ事物は捉えられ、事物を捉えることによってのみ観念が成立し得るのである。

 詩は藝術である。巧藝は表現である。表現の生命はかたちにある。かたちを見ることは難しいものだ。われらはかたちによつてのみ内部生命を消息せしめる。あだかも、哲學者が推理をたよるように。かたちの核心は技巧である。

 このような日夏の志向は、単に表現上の問題だけではなくて、その裏側にある思想にも求められる。すなわち、日夏は見えないもの、言い得ないものを丸ごと取り込むべき形を欲した。

 「特に、科學の破産を經驗し既成宗教の更改と其の新しき見方説き方に腐心する現代に」(3)於いては、日夏のその様な希望を満たすものはやはり隠された学問、神秘の学以外には無かったのである。

・裸形の女

 現在の知の領域では説明し得ないもの、それを全てを捉えようとするという日夏の出発は、人間としては余りにも不遜な希望であったかも知れない。だがそれ故に日夏は、敢えてそれを行わねばならぬと云う神秘的な啓示を受けたものと思える。それはきっと、無限の知を獲得しなければならないと云う啓示であったに違いない。

 そして日夏はその手段として、完璧なる言語美を選択した。つまり、日夏にとって、詩とは、知の無限性に挑む武器として与えられたものであった。それは一種の天啓の形をとって、日夏をしてそうせざるを得ない宿運が命じたのである。彼は自分のその始まりを、こんな風な詩句で表現している。

昏黒の霄たかきより 裸形の女性堕ちきたる
緑髪微風にみだれ
雙手は大地をゆびさす
劫初の古代よりいままで 恆に墜ちゆくか
一瞬のわが幻覺か
知らず 暁の星どもは顔青ざめて
性急に嘲笑ふのみ (4)

 突然、女が天空より墜ちてきたのだ。この刹那に日夏は自分の為すべきことと、その方向性を見出したであろう。同時におそらくはその結果も見えていたかも知れないが、拒否出来るようなものでは断じてなかった。従って、現実には回りの衆愚が嗤おうとも、自らそれに従うことを肯じた。つまりそれは、今までの日常的生活から脱却して、自分の信じられるところの永遠性に向かうということである。それ故、日夏の第一の詩集の題は、必然的に『轉身の領』となったのである。

 因みに、これを錬金術象徴で解読するならば、女とは月すなわち女性原理の象徴であり、揮発物あるいは練金作業のための銀を指し示すものとなる。そしてさらに裸形であるということは、さらにその純粋性を強調していることとなる。純粋な揮発物であり、天上へと浮遊し消えてゆく存在である裸形の女が、その力に逆行した形で堕ちて来て地上を指差すということは、すなわち今一度の錬金作業を行なえという暗示に外ならないであろう。

・聖痕

 そしてさらに決定的な天啓を日夏は認識した。

心忙しく茂林を漫歩りきつつ
わが哀傷の聖痕を凝視めたり(5)

 じっと自らの手を見る。それは石川啄木が『一握の砂』で描写している光景と、行為としては同じものである。しかし日夏の眼が凝視しているものは、人間の贖罪の証しである聖痕(Stigmata)である。

 聖痕とは、周知の如くイエス・キリストが磔刑に処せられた際に打ち込まれた釘の傷跡が現出すると云うものである。それは単に信仰の深さによって現れるものではない。パウロが、「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている」(6)と言った意味と同様に、それは自分の持つ使命に気付いたものが受ける証しであり、逃れることの出来ない自らの宿命の象徴として存在する。

 つまり日夏は、裸形の女によって、為すべきことを指示され、さらに聖痕によって、その行為者が自分自身であり、逃れることが出来ないと云うことを悟ったのである。

 これで詩作のすべての要素が整った訳である。自らの打ち消し難い渇望、そして天啓によって動機は完了し、錬金術の方法論を携えながら、聖痕で象徴される自分の宿命としての進むべき道を歩み出して行く。

・錬金術の求めるものとの一致

 ではその錬金術とは一体どのようなものであろうか。ここで錬金術の目指したものを簡単に概観して見たい。

 一般に膾炙している見解では、錬金術は最終的に金の製造を目指すものであり、近代科学に対して擬似科学的なものであると云う。しかしこれは明らかに錬金術のもっとも通俗的な捉えかたであり、余りにも一面的なものである。そこでもう少し好意的な見解には、金の製造と云う技術的な行為と精神の精練と云うより深い意味があると捉える見方がある。

 しかしながらそれでもまだ、錬金術の真の目指すところには程遠いものである。錬金術とは、近代の科学的、つまり合理論的なものとは全く異なったパラダイムに属するものである。従ってそれは、精神と肉体と云う二元論的な考え方の範疇にも入っていない。

 真の錬金術師は金の製造と云う物質的作業を行ないながら、同時に精神の解脱と云う神秘的作業を平行して行なうのである。物質的作業と神秘的作業の両者はコレスポンダンスと類比によって厳密に結び付いており、どちらが欠けても所期の目的を達することは出来ないものなのである。

 コレスポンダンス(照応)と類比とは、錬金術を含めた隠秘学における最も基礎的な考え方であり、宇宙の全ての存在には類似による対応があり、その相互影響の元に事象が展開すると云う言説である。つまり、合理論的な科学では偶然とされる事象も、錬金術に於いては決して偶然ではない。偶然が成立するためには何かしらの必然が必ずある筈だというのが、錬金術の考え方である。

 このような考え方は、隠秘学中興の祖とされる十九世紀フランスのエリファス・レヴィによって当時のロマン派や象徴派の文学者達に広く敷衍したものである。次に示す、ボードレールの「コレンポンダンス」と題された詩も、隠秘学者レヴィの思想を反映したものである。

「天地」は宮居なり、宮柱生きたりな、
時ありて、おぼろげに言告ぐらしも。
象徴の森わけて、人間のここをよぎるに
森の目の、親しげに、見守りたるよ。
夜のごと、光のごとく、底ひなき、
暗くも深き冥合の奥所なる、
聲長き遠つ木魂の、とけ合ふとさながらに、
匂ひと、色と、ものの音と、相呼び合ふよ。(7)

 では、全てが必然的な法則に支配されている世界の秘密を解き明かすことによって得られる結果とは何か。一言で謂うならば、それは人間の完全なる解放と自由である。フォン・エックハルツハウゼンはその著書『聖壇の上の雲』で、次のように表現している。

 復活は三つの次元にわたって行なわれる。第一にわれわれの理性の復活。第二にわれわれの心ないしわれわれの意志の復活。最後にわれわれの全存在の復活である。第一および第二のそれは霊の復活と呼ばれ、第三のそれは身体の復活と呼ばれる。神を求める敬信の人々で、精神および意志の再生を経験したものは多いが、身体の復活を経験したものは少ない。(8)

 このように、単に精神の復活だけではなく肉体をも含めた人間の全的な復活、すなわち救われていて自由と云う究極的な解放を成し遂げようというものが錬金術なのである。従って単なる神秘主義的思想という観点だけでは捉えられるものでは決してない。錬金術に於いては、天使の身体の獲得と云うことが、非常に重要な意味と意義を持つものとなるのである。

 そしてまさにそのような、精神だけはなく肉体をも含めた解放とは、二つの対立を対立のまま超克しようと欲した日夏の探し求めたものと完全に一致した理論であったと言えよう。

・出発

 錬金術に於いては、その道に深く通暁し最も高い知識の獲得にまで達したものを達人 (Adepte) と呼ぶ。つまり達人とは、宇宙の律動原理を最も深く理解した者の謂いである。そして達人への道を決意した日夏は、まさに前人未踏の一歩を踏み示そうと歩み出した。当然、その道は果てしなく険しく、誰にも理解されぬ道ではあったが。

小慧しい黒猫の柔媚の聲音
青ざめた燐火をとぼすあたたかなその毛なみ
琥珀にひかる雙瞳を努めて遁れたいゆゑに
環 儂は漂白ひいづる門出である
月光 大地に降り布き
水銀の液汁を鎔解しこんだ天地萬物の裡
   ああ 儂が旅く路は
   胆胆とただ黝い(9)

 このような豁然たるロマンティックな口調でもって、日夏は未知の奥深き世界へと旅だつことの決意表明を行なったのである。未知の世界とは、謂うまでもなく、隠され続けてきた、常人が立ち入ることを拒み続けている、真正の学問、隠秘学である。

 だがしかし、日夏は詩人であり、芸術家であることを捨てた訳ではない。日夏にとっては隠秘学的方法論は自らの芸術のスタイルと、その象徴体系の源泉として断じて必要ではあったが、隠秘学者ないし錬金術師そのものになろうとした訳ではない。

 従って日夏はあくまで、芸術表現による自らの解放を目指す。

  

三.深淵と眩暈

 芸術とは、非日常に於ける啓示を、日常世界に於いて表出させることであろう。芸術表現を行うならば、少なくとも日常的ではない何か特殊な感覚を、それとして認識することが可能となる準備と不断の鍛錬が必要であるはずだ。つまり啓示とは、偶然認識しただけで自在に使いこなせるものではない。如何なる知識を得ようとも、ただ認識したと云うだけでは、優れた観賞者にまでしか到達することは出来ないからである。

 非日常とはすなわち、日常からみれば得体の知れぬ暗い深淵である。その深淵を直視する事に拠って生じる、不安定で不規則な眩暈を定着させることが日夏の芸術の使命であった。日夏の心性はもとより観賞者のものではなかったのだ。

・象形文字の引き出す通時的幻視

 深淵を定着するための形態は詩、その方法論が錬金術、そして実行における道具となったのが、象形文字である漢字を基本とした日本語と云う包容力の大きな言語である。

 尤も、根本的に日本語で、フランス語の奏でるような韻律を踏むことは不可能であろう。それは、言語学的な考察などしなくても、一度でもフランス語の詩の朗読を聴けば誰にも解ることである。それは余りにも歴然としたものであり、単純に朗読時の音の美しさが詩の全てであるならば、日本語で詩は作られるべきではないと言えるかも知れない。

 しかし、日本の詩人達はそれに対して為すべきことをしなかった。つまり、日本語での独自な、韻律以外での詩的表現はどのようなものであるかとうことを提示しなかったのである。それどころか、無自覚で、吐露したところで意味もない感情を吐き出すだけの詩が、詩として認められてしまうという最悪の状況に甘んじていた。

 だが日夏耿之介だけが、そのような日本語の持つ「先天的の不具」(10)をふまえた上で、明確な意志と方法論を持って詩作を開始したのである。それはヨーロッパ的な詩学を脱却することでもあった。象形文字である漢字には多様な過去の象徴が存在し、さらに新たに無限の象徴を付与することが可能となるのである。

 日夏は次のような明晰で明確な決意を持って自覚的に詩作を行ったのである。

 象形文字の精靈は、多く視覺を通じ大腦に傳達される。音調以外のあるものは視覺に倚らねばならぬ。形態と音調の錯綜美が完全の使命である。(11)
 一文字では意味を持たない、完全に組み合わせのみの記号であるアルファベットで表現される言語と云うものは、その音調と、形の意味を持たないことによる抽象性に支えられていると言えよう。しかし、象形文字である漢字は、抽象的なものでさえもその形によって捉える種類の言語である。しかもその形は固定された一つのイメージではなくて、その形に至るまでの全ての状態を内包している。つまりそれは中沢新一氏が言うように、「フォルムの生成力、あるいはフォルムの萌芽のような状態、それさえもが漢字の中に保存されている。つまり漢字は運動している」(12)と云う顕著な特徴を持っているものである。

 さらに日本語は漢字の他にかな文字も持ち、外来語も許容している非常に特殊な言語環境であるが故に、全く独自の方法論による詩学がなければならないであろう。そのことを真の意味で認識した上で日夏は、詩を書き始めたのである。

 それは単純に、象形文字であるのだから、文字の形で意味が理解可能である、と云うような事ではない。まず前段階としてその文字が読めなければならないのは当然としても、読めたからと云って、その文字の持つ歴史的造形的な意味までもが理解出来る訳ではない。

 それよりも、同じ意味を表す違う文字の組み合わせ、同じ音で意味を使い分ける異なる文字というものが存在する以上、漢字はその文字が選別され使用されるに到るまでの経過を、視るもの自身の精神に幻影として深く刻みつけると云うことが、大きな影響力を持つこととなる。

 つまり、象形文字は、意味が不明であったとしても、視るものに対するある種の刺戟を与える。それは意識下のものではなく、潜在意識の中に奥深く閉じこめられる種類の異なった象徴大系を持つものであるかも知れない。

 齋藤磯雄氏の見事に美しい表現では、その様は次のように描写されている。

これを再三、三誦するにつれて、この旋律が愈々あざやかになる一方、視覺を通じて象形文字の神秘的な形態から傳達される一つ一つの印象が、謂はば律動の音樂的時間の中に吸収されながら、一種の分散和音もしくは對位法の効果を示して、本來の旋律に協力するのを覺える。――かくして、音調と形態とは、精神の不可思議な領域於いて渾然と交感し照應しつつ、交響樂の力強さを以て『喚起の魔術』を達成するのである。(13)

 

四.孤独と熱情

・練金術的寓意の象徴的完成

 日夏が知らなければならないと認識した、無限の知の彼方にある、未知の世界とは、すなわち存在と美の秘密である。その秘密を解きあかすには、何物にも動じない固い意志を持ちつつ、この世の知の極限に向かって行かなければならない。

 その過程の日夏の精神の状態を示すのが、こんな詩文である。

儂が灰いろの手套は
恆に 恆に 性命の神液にひたり
ヘルメスのごとく 鎔爐を擁し
嚴冬の朝に目醒め練金の幻夢にこがれ
夏の夕は パラケルスス方士のごとく
短剣に妖鬼を匿し 巷巷に 學匠の憤怒を驅つた(14)

 明らかにこの詩句は、錬金術的象徴に満ち溢れている。それ故、錬金術的知識の無いものにとっては、全く意味不明の詩として映るであろう。しかしそれも、勿論日夏の責任ではない。日夏の詩に於いては、理解されると云う事は必要条件では決してないのだから。

 しかしながら最も簡単に、この詩句の意味を語句に添って解釈してみたい。

 錬金術による物質変成の起きる前の色である「灰いろ」の手套が「性命の神液」に浸っている。「性命の神液」とは、練金術に於いて目的の一つともなっている重要な薬である練金薬、つまりエリクシール(15)のことである。

 「ヘルメス」とは、練金術をヘルメス学とも呼ぶように、練金術の象徴の頂点でもある、ヘルメス・トリスメギストス(16)のことである。そのヘルメスがかつて行ったように、自分もまた「鎔爐」に向かっていると云う事は、ヘルメスが解明した世界の謎を再び解こうという意志表示である。

 またこの「鎔爐」とは、練金術における哲学的結婚を実行するための「哲学の卵」と呼ばれる球形フラスコのことである。哲学的結婚とは、前述のエリクシールを生成することである。

 そしてそのような究極的変成を成し遂げようとする「練金の幻夢」とは、断じて「嚴冬の朝」でなければならない。哲学的結婚と云う、練金術に於ける「大作業」(17)の開始は、冬の日の出の直前に東に向かって行わなければならないからである。

 パラケルスス(18)の剣については、澁澤龍彦氏の文章を引用すると、「パラケルススがつねに身辺から離さなかった剣は、柄頭に『アゾット』という銘が刻まれていて、そのなかには一匹の悪魔が封じこめられており、また鍔には、象牙の容器が仕込まれていて、そのなかには少量の『賢者の石』あるいは阿片チンキが容れてある」(19)と云うものである。

 詩句に於いては表現されてはいないが、このアゾットはこの詩の核心である。パラケルススの剣と云う謂いは、アゾットと云う語を直接表現するよりも遥かにその本質的な意味合いを含めて表現していることになっている。

 アゾット (Azoth) という語は、どのアルファベットでも最初にくる文字(A)に、ラテン語の(z)、ギリシア語の(o)、ヘブライ語の(th)というそれぞれの言語の最後の文字を加えて作られたもので、始まりであり終わりであるということを意味するものである。この象徴は、完全なる知であるグノーシスそのものとしての意味を持つ。

 そして、パラケルススの実像と自分自身を掛けた意味で、たとえ「學匠の憤怒」をかっても、自らがマグス(道士)とならなければ、完全なる知を得るための実験は成功しないと云うことを表現している。それはつまり、絶対的な孤独の謂いに外ならない。

 その孤独は、当然代償としての対象を求め彷徨い出す。日夏に於いては、その対象とは聖母マリアであった。日夏の旅は聖母を求める旅でもあったのだ。

『深秘の 端麗の 中世の 神の御寺に存し母神
その聖像にあくがれて
また儂が身の内心の有翼の炎におびかれて今来り彳める也(20)

 そして聖母の前に達した時、日夏は自らの願いを精巧な形態で吐露するのである。

かの無限の想像と有限の理智と抱擁して
かの無限の情緒と有限の知識と結婚する
澹然として美美しき中世の幻夢のままに
今も尚 行末も尚しか在らしめたまはれ(21)

 ここに於いて、練金術的寓意表現と言語美としての詩が不吉な結婚を完了して、日夏詩の真髄が完成に到ったといえるであろう。

 

五.失墜と美

・超センチメンタリズム

 知の地平を越えようとする事を最大の目標として努めた日夏ではあるが、その詩句には、驚くほど若々しいロマンティックな雰囲気を漂わせている。しかし畢竟、日夏耿之介は決してロマン派詩人の列には属することはないであろう。何故なら、彼の詩に於いては、一切のロマン性を打ち消すほどに激しい抒情が、余りにも横溢しているのだ。

 ロマン主義というものを、巨大な不可知の深淵を自らの欠如として認識する事にやりきれない歓喜を感じるものだとするならば、日夏のセンチメンタリズムは、欠如でしかない事は解っていても、その暗黒を光に拠って顕在化させ、捉え得るものであるとイメージすることの不毛さに悲嘆を感じると云うものである。

 ではそのような日夏の心情は、高踏派と呼ぶべきものであろうか。ロマン主義を克服していると云う意味ではそう呼ぶべきかも知れないが、やはりその範疇で捕らえ得るものではないだろう。

 そしてさらに、象徴派と呼ぶことも、おそらく不当なことであろう。象徴に悲嘆する事が日夏の結論であるならば、そう呼ぶことは、彼の言葉の練金術の結果生み出された純金に対する冒黷であろう。凡そ知というものは、象徴を通してしか表現できぬものである以上、日夏は必然的に道具としての象徴表現を用いるのであり、決してその表現自体が目的であるわけではないからである。

 また、難解な表現の間に、死の匂いと渇望が常に見え隠れすると云う点では、デカダンとも呼ぶことも出来る。そう考えて行くと、日夏自身が自らの詩を、ゴシック・ロマン詩体と呼んだことはある意味で納得の行くものと言える。だが、それでもやはり正確に日夏の詩を表現しているとは言い難い。日夏詩には、ロマン主義から象徴主義に至る全ての要素が含まれているが、そこに厳然と通底しているものは、抜き差しならない程のセンチメンタリズムであるからだ。

 つまり、あくまでリリックな情感に満ち溢れてはいるが、象徴的な手法とロマン的力強さを持って、センチメンタリズムを確固とした知識で神秘体験として定着している日夏の詩は、もはや単なるセンチメンタリズムではなく、謂わば、『超センチメンタリズム』と呼ぶべきものであろう。これはレアリスムとシュルレアリスムの関係と正確に呼応するものとしての謂いである。それは日夏自身の謂う、「絶對眞理への精進努力の一呼吸の情緒本位なる結晶」(22)としての詩に最も相応しいものであろう。

 現実に対する突破口はここにも存在したのである。

・沈黙へ向けて

 超センチメンタリズムである日夏詩にあっては、あの完璧成る言語美も決して目的ではない。その指し示すものが肝要なのである。しかもそれは隠秘学的方法論によって表現されたものであり、単純な理解を拒絶する一個の意志そのものとして存在している。つまりそれは、ある意味で暗号文書と同義であろう。しかしそのような方法に於いてしか表現し得ない芸術でもある。たやすく感性に訴える芸術が存在すると同時に、図像学的な読み解きの作業を経ないことには意味すら理解出来ない芸術も存在するのである。

 そして日夏道士は、自らの眩暈を定着しつつ最終的には、無限に広がる感性の海に自己の有限な知識を溶かし込むように浸し込み、信ずるに値する絶対的な聖母の前に跪ずく。

 それは全ての結果を知っていながらも、ダイダロスとイカロスを同時に体現し、イカロスの失墜までも追体験せざるを得なかった、日夏の究極的な感情表現であり、真の目的でもあったのだ。

 つまり、聖母の前に跪ずき、その顔を直視する資格を得るために、自らの人生を、飛翔と失墜の狭間で美を現出させるための道具と化したのである。

 そのような日夏の詩は、神秘的霊感を詩によって表現するということに外ならないものである。ローラン・ド・ルネヴィルが、「神秘家と詩人は、精神の充溢を得るために、能動的あるいは受動的方法を用いて、漸次、自我の否定、倫理的価値の否定へと辿りつき、夜と光が溶けあう暗黒の世界へはいるのである」(23)と言うように、神秘的体験と詩的体験は、全く同じものと言っても良いであろう正確な一致を見せる。

 だがルネヴィルは両者の間には決定的な差異が一つだけあると云う。

 詩的體驗と神秘的體驗の諸段階は、その終局にいたるまで並行して發展し、終局に至るや突如として、言葉と沈黙、運動と憩ひとを對立させる深淵によつて、両者は引き離されるのである。(24)

 つまり最終的に言葉に向かうのが詩人であり、沈黙に向かうのが神秘家と分類されると云うのである。その意味に於いては、やはり日夏は詩人であるだろう。しかし日夏は深淵を言葉によって表現した後には、詩による表現を止めた。つまり、沈黙に向かった。それは神秘家としては能動的であり、詩人としては余りにも受動的なものである。

 文学的に考えれば、その様な状態は明らかに神秘的体験が詩的体験を超越した時に見出されるものであろう。ルネヴィルが続けて言っているように、「夜の意識に捉えられた詩人たちは詩人であることを止めるといふことを認めてのみ、了解されうる」(25)のである。

 またそれは、錬金術的な思考で捉えるならば全く基本的な合意事項でもある。知的体系としての一切の階層性を持たないこの学にあっては、「入門志願者は何一つ受容しもせずまた教化されもしない。対象は暗く閉ざされており、そこに参入するには投企が必要なばかりである。だがこの世界に投企して秘法に明るくなったとしても、これを世俗に持ち帰ることはできない。なぜなら秘法に通じたものはそれだけ、自身もまた自らの外観を暗い沈黙の外皮で鎧うほかはない」(27)のである。つまり、全てに開かれている錬金術の学では、知識を一方向に向けてのみ開示するということは不可能なのだ。全てに開示するということはすなわち沈黙以外には無いのである。

 そのような結論は、詩的言語の先鋭さと練金術的寓意の正確さに於いて、日夏に最も近い詩人であるかも知れないランボーも同様に達していた。ランボーもまた、日夏が道士あるいは達人を目指したと同じ目的で、見者(Voyant)を目指していたのだ。

 ああ、ついに、なんたるこれは幸せだ、なんたるこれは理合かな、黒い雲から僕は青空を切り離すに成功した、そして生きた、天然の光線の火花となって。嬉しさ余って、出来るだけ、おどけた、狂った表現に僕は頼った、例えばこんな塩梅だ

もう一度探しだしたぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
     海だ。(27)

 そして日夏はランボーと同じく永遠であるもの、もっとも彼に於いてはそれは静謐の極限としての「死」であったが、を見つける。
肉はびこり春更けわたり 華褥を喜む二十歳の頃
しばしであるが わたくしは
完全にかの雑色と袂別を告げてゐた。
「死」は畢竟 野望と愛燐との谿間ぶかく埋もれてゐたにちが
 いひない。(28)
 そしてランボーがその末期の絶唱に於いて「これも過去のこととはなった。僕、いまや、美をば崇めるわざくれも知る。」(29)と発作的に言うとき、日夏はそのわざくれを知り尽くした上で、
忍び寄る「死」の蠻賓の冷たき抱擁に魅らるる
哀しき福祚のけふ日頃かな。(30)

と、冷たく無感動な歓喜、すなわち諦観の極地を詠ずる。ついに日夏は達したのだ。

 だがそれは、無限的な知への旅が、有限なる知的段階で挫折せざるを得なくなったとも言える。それは、日夏がそこまで選ばれた人間ではなかったといってしまえばそれまでではあるが、しかし言語で表現しうる極限がここにあるのではないだろうか。ジャック・デリダ風に換言すれば、エクリチュールの不可能性に達したと言えるかも知れない。当然ながら、その先には沈黙しかない。

 しかしながら全てが消え去った訳ではなく、後には無限なる感情だけが痙攣的な美を伴いながら日夏耿之介を苛む。

 そうしてその苦痛の美故に、聖母の前に拜跪し、きっと、

一切有しかく在らざらしめたまへ 御母よ(31)
と明確に、発音することが出来たであろう。つまり、知の挫折を突破する事が出来た筈である。ついに現世的な挫折とは、永遠に決別する事が出来たのである。彼を嗤う衆愚共が決して入る事の出来ない世界に於いて。

 
  1. 『黄眠詩教義問答』。
  2. 『黒衣聖母』序文の五。
  3. 『轉身の領』序文の四。
  4. 『轉身の領』の「墜ちきたる女性」。
  5. 『轉身の領』中の「聖痕」
  6. 『新約聖書』中の「ガラテヤ人への手紙」第六章十七節。日本聖書協会訳。
  7. 『悪の華』 堀口大學訳。
  8. セルジュ・ユタン『錬金術』中の引用に拠る。(有田忠郎訳)
  9. 『黒衣聖母』の「煉金秘儀」の「道士月夜の旅」のT。
  10. 『轉身の領』序文の一〇。
  11. 『轉身の領』序文の一〇。
  12. 中沢新一 『イコノソフィア』。
  13. 『日夏耿之介――技法と詩魂』。
  14. 『黄眠帖』の「道人跪拜禄」のW。
  15. Elixir 練金術に於いては、卑金属を金に変えるための薬、あるいは不老不死の霊薬の意味を持つ。
  16. Hermes ヘルメスという語は、エジプのトート神のことであり、後にギリシアの神の名ともなったもので、その名で呼ばれた古代の伝説的な練金術師を指す。形容 詞形の現代語では、難解な・密閉された、という意味になるがそれらは全て練金術の作業内容からきている。
  17. Le Grand oeuvre 練金術の最も重要な意味を持つ作業のこと。単純には卑金属を金に変えること。
  18. Paracelse 1493-1541 医師としても有名な人物であるが、練金術・隠秘学に付いての思想に特に重要な功績があり、薔薇十字系の思想は多くを彼に負っている。
  19. 澁澤龍彦 『黒魔術の手帖』。
  20. 『黄眠帖』の「道人跪拜禄」のZ。
  21. 『黄眠帖』の「道人跪拜禄」のZ。
  22. 『予の詩論の一縦斷面』。
  23. 『詩的體驗』 大島博光訳。
  24. 前掲書。
  25. 前掲書。
  26. 種村季弘 『黒い錬金術』。
  27. 『地獄の一季』 堀口大學訳。
  28. 『咒文』の「蠻賓歌」の第参。
  29. 『地獄の一季』 堀口大學訳。
  30. 『咒文』の「蠻賓歌」の第漆。
  31. 『黒衣聖母』の「夜の誦」。