ここでは、さらに具体的にレヴィの魔術理論をみてみたい。 

 レヴィは現実に対して変化を起こすことの出来る魔術の実践的な原理として、「アストラル光」なるものを設定した。

 アストラル光とは、宇宙の全域にわたって充満している一種の流体である。もちろん流体という表現は譬喩としてのものであり、その実体はレヴィ自身も明らかにはしていない。しかしその力の存在は、その作用した結果から確実なものであるとレヴィは以下のように断言する。



 メスメルの弟子たちの手探りによって朧げながら明らかにされたこの作因は、まさしく中世の錬金術師たちが『大作業』の『第一質料』の名で呼んでいたところのものである。グノーシス教徒はこれをもとに火でできた『精霊』の肉体をつくりだし、また『サバト』や『神殿』の『秘密儀式』において、バフォメットや、メンデスの『両性具有』山羊の象形的形姿のもとに崇められたのも、これであった。これらすべてのことはいずれ証明されるであろう。(1)
 レヴィによれば、自然の全ての形態は観念と照応していて、その観念の媒質として自然の中に隙間なく充満しているのがアストラル光である。また四大精霊の霊的本質もこのアストラル光であるという。

 アストラル光の観念は、自然つまり宇宙の中には虚無というものは存在しないということを示唆する。これは魔術においては重要な観念である。なぜなら、虚無においては照応の理論も均衡の理論も成立し得ないからである。魔術とは、存在するものを原理とする学なのである。言い換えるならば、存在の世界においては、存在しないものは存在しないということである。世界とは、存在も非存在も含めたすべての属性を持つ絶対者が、存在属性を使用して展開したものであるということは既にみて来た通りである。つまり、存在は存在であるのだ。レヴィは次のように語る。

 現に在る一切のものは嘗て在ったものから生じ、したがって現に在るところのものはどれ一つとしてもはや存在しないわけにはけっしていかないだろう。次つぎ現れる形態は運動の交代から産み出される。つまり破壊し合うことなく互いに交代し合う生命の諸現象である。すべては変わる、だが何ものも滅びはしない。(2)
 アストラル光は、それ自体は生命も方向性も持たない光線である。しかしそれは生命を存続させる力であり、同時にそれを殺める力でもある。そしてそれは意志の力によって支配することの出来るものなのである。魔術的な作用は、アストラル光を自在に活用することであり、それはすべてを可能とする。
 悪魔の存在についても、レヴィはアストラル光を用いて説明する。

 理性によって喚起されるときには、調和をそなえた形態が生み出される。狂気によって喚起されたときには、無秩序な奇怪なかたちで出現する。(3)


 つまり、悪魔とはアストラル光により形態を持った邪悪な力である。

 アストラル光に対応するものとして、人間が発する「人間光」なるものも存在する。それは人間の意志の力のことである。そしてそれはアストラル光と実質は同じものであり、アストラル光を吸気とすれば、人間光はその呼気である。

 アストラル光を支配するためには、人間光によらなければならない。つまり人間の意志の力によってアストラル光を支配できれば、いかなる望みも実現可能であるという。

己自身に対して、また他人に対して望むことがらは、もし諸君が己の意志を裏付け、その決断を行為によって定着させるなら、善悪いずれを問わず、他人にたいしても、自分にたいしても、間違いなく実現するはずである。(4)
 
 
 占星術は隠秘学の中でも最も軽蔑されている学であるが、その原理は魔術と同じものであり、その原初のかたちは純粋なものであった。つまり、「自然の中にあるものはなに一つ無関係ではない。路上に小石が一つ多いか少ないかで、最高の偉人や最大の帝国の運命までもが挫かれたり大きく変えられたりすることがある」(5)のであり、そう云った物事の連関を追求する学が占星術であったのである。

 錬金術も同様の原理から出発している。錬金術においては、絶対的哲理を「賢者の石」というもので表現しているというだけの違いである。レヴィは賢者の石の研究について次のように語っている。

「賢者の石」を見出すことは、すべての先達がやはり口を揃えて言うように、従って『絶対的なるもの』を発見したことになる。ところで、『絶対的なるもの』とは、もはや誤謬を許さないものであり、すなわち気化しやすいものの定着であり、想像力の法則であり、存在の必然そのものであり、理性と真理の不変の法則である。(6)
 

 

 以上のような魔術の基本となる教義を真に自分のものとし賢者となるならば、永遠の生をも手に入れることとなる。つまり、「賢者にとっては、死は存在しない。死とは俗人の無知と弱さによって恐ろしいものにされた幻影である」のだから。何故なら死とは変化の一形態に他ならないのである。そして変化とは運動であり、運動とは生命の発現なのである。
 つまり、自然の絶対的な法則は、不滅のものであり、曽於の不滅な法則を手に入れた賢者は従って不滅となるのである。
 賢者となるためには、自らの意志の完全な解放をなすことが第一となる。それは、「人間の彼自身による創造、すなわち己の能力および将来にたいして彼が行う余すことなき征服である」のだから。



−註−
  1. "Dogm et rituel de haute magie" Bussiere 1982 pp.45
  2. 『高等魔術の教理と祭儀 教理編』 生田耕作訳 人文書院 1982 pp.91
  3. 『高等魔術の教理と祭儀 教理編』 生田耕作訳 人文書院 1982 pp.204
  4. 『高等魔術の教理と祭儀 教理編』 生田耕作訳 人文書院 1982 pp.207
  5. 『高等魔術の教理と祭儀 教理編』 生田耕作訳 人文書院 1982 pp.221
  6. 『高等魔術の教理と祭儀 教理編』 生田耕作訳 人文書院 1982 pp.244