最後はレヴィの意志を受け継いだ人々の言を引用する。
 ここで一つの決定を行おう。つまり、「絶対」とは探求されるべきなにものかであり、そしてそれはついにとらえられることが宿命づけられていること。これは理性が確実に、信じることが正しいと命じる原理である。
 20世紀フランスの哲学者バタイユは次のように言っている。

 私たちはある頂点を求めている。誰もが、もしそうしたければ、この探求を怠ることが出来る。しかし人類はその全体において、この頂点に憧れているのであり、この頂点のみが人類を定義し、この頂点のみが人類の証明と意味なのである。(1)

 彼の立てたこの原理は正しい。しかしついに絶対そのものを捉えることは出来なかったようである。何故なら、バタイユは絶対に到達するまでの途中の段階において、「絶対」に属性を与え、限定してしまったからである。だが彼が気付いた沈黙の意味には、古代から伝えられる最も重要な真理の鍵があることは確実である。

 すでに成すべきことは知られている。レヴィの芸術的後継者ともいえる詩人ランボーに言わせればこんな表現となる。

 詩人たらんとするものの第一歩は、全面的に自分自身を知るにある。彼は自らの霊魂を探ね、調べ、試み、知らなければならない。(2)

 彼は見者になれと叫ぶ。なんとなればそれは絶対に到達することを目指す者の、一番基礎的な条件なのであるから。ランボーの言っていることは、エリファス・レヴィの思想の翻訳にしか過ぎない。しかしランボーは彼自身の天才によって、それを熱狂を介して信じさせるという、自らの持つ宿命を完成させたのである。つまりこんな風に。

 詩人が見者となるがためには、自己の一切の官能の、長期間の、深刻な、そして論理的な紊乱によらなければならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼はみずからの内に探求し、みずからの内に一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、−そして絶大の知者になる! −なぜなら、彼は未知に到達するからだ! −すでにみずからの霊魂の練磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくも彼はすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物の内に没し去って、彼が一身を終わったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現れるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平のあたりから踏み出して、詩を進めるから!(3)

 
 

−註−
  1. ジュルジュ・バタイユ 『エロティシズム』 澁澤龍彦訳 二見書房 1973 pp.404
  2. ランボー 『ランボー詩集』 堀口大學訳 新潮社 1951 pp.162
  3. ランボー 『ランボー詩集』 堀口大學訳 新潮社 1951 pp.162